昭和41年10月28日 夜の御理解
信心を本気でひとつ頂かしてもらうて、教祖の神様が教えて下さる、信心する者は肉眼をおいて心眼をひらけとこう仰る。心の眼をひらけというのですね、だから心の眼をひらかせてもらわなければ、人間の幸せというものはありません。それはどんなに信心を頂いておりましても、そりゃ信心頂かなくても、お天気の中に矢張り曇った日があったり、照る日があったり、雨の日もありゃ風の日もあるように、お天気の日だけが有難くて、雨の日が有難くないというのが、こりゃ肉眼をもっている人の生き方なんです。
ところが心の眼をもってするとです。その雨もお湿りとこう云う。金光教的なあり方ですよね。お湿りとして、それを有難く頂ける。いやそりゃ風ですらそれを神様のご都合として頂けれる。家の中にいわば冷たい風が吹きすさんでおる。心の中がそれこそお湿りの日のように、いつも湿っぽい。それでは、信心を頂いておる値打ちがないのです。今日 私、午前中ここを奉仕させて頂いておる時に、ある熱心に椛目にお参りをしておった人ですけれど。最近、ちょっと疎遠になっておった。
その方が、うす暗い部屋でね、御飯をいただいておる感じなんです。うす暗い部屋で、こう手探りしなければ分からない感じの部屋でね、御飯をいただいておる。よくそれをみると、その御飯茶碗の中にね、御飯が入っていない。それを実に淋しい格好してから、そのまあ、入ってない茶碗の中を、こうお箸で、こう御飯を頂きたいのだけれど、その御飯が無いといったような感じです。而も薄暗い何かしらん、私なんか本当にぞうっとする感じがしましたですね。
薄暗い雰囲気の中で、御飯をいただこうとするけれども、その御飯がいわゆるままになっていないということなんです。それで私そのことをお願いさして頂きよりましたらね、こういう句を頂いたんです。「凍鶴の、ふたたび閉じし、まぶたかな」凍鶴というのは凍りついたという凍りですね。かくというのは鶴のこと。「凍鶴の、ふたび閉じし、まぶたかな」寒い時に、例えばあの鶴が片足をなんか上げてから、じっとこう目をつぶっておるような情景のとこがございますよね。
そしてそのふっとこう目を開けたんだけれども、又、再び閉じたとこういうのです。「凍鶴の、ふたたび閉じし、まぶたかな」まあここでは、私をまあ亀とこういう風に表現して下さる。ですから、ここに皆さんはいうなら鶴のようなもの。桂松平先生という御信心の根元に、いわゆる亀がこうやって居座っておるようなもの。そこへ沢山の鶴が、その亀のところえ慕うて、こうやってくる。いわゆる、鶴亀の舞い遊ぶようなおかげ。ここに信心の理想郷がある。
いや椛目の信心というか、椛目にこうしたお取次の場、難儀な氏子の取次の場が出来た意義がそこにある。その亀のもとに、いわば喜々として、鶴が舞い遊びに来る訳なんです。そこに鶴亀の舞い遊ぶような、いわゆる、めでたいおかげということにもなるのだ。だから凍鶴の鶴というのは、まあ信者氏子、ここにお引き寄せ頂いて居る者の事だと私は思う。ふたたび閉じし、まぶたかな。一応は目を開きかけとった。惜しいことだなあ、本当に惜しい、又まぶたを閉じてしまった。
心の眼を開きかけておった。ところがその心の眼が、又閉じていく、もうこんなに淋しいこと。私が心眼の中に拝ましてもらうね。いわゆるその、私、ここで心眼という言葉を使いますが、今日、私が云うておる心眼というのは。あの、心の眼に映すというものじゃないです。これを二つ、だからここは、心眼と霊眼という風に使わなければいけないだろうと思うね。例えば、御祈念をさしてもらいよって、いろんな状景を頂いたりするのは、まああれは心眼というよりも、霊眼だと私は思うですね。
だから、教祖の神様が仰っておられる心眼というのは、心の眼を開くということ。所謂その、心の眼を開きかけておったのが、いわば凍りついた寒さにというかね。何かこう寒い、又はその雰囲気が暗い中でですたい。その御飯にしようと思うけれども、茶碗の中には御飯も入っていないという。私が所謂、霊眼にみるところの、その寂しい情景というものがです、もうそのまま神様の心でもあろうとこう思う。折角御神縁を頂いて、信心の有難さが少し分かってきた。信心の有難い心の芽がこう出だしてきた。
それが無残に踏みにじられていってしもうた。心の眼が開き出しよった。それが又寒さの為に閉じてしまったと。それを神様がご覧になる時に、神様が淋しい事だとこう私が、今日の霊眼に拝まして貰った時の感じのように、淋しいものであろうと私はこう思う。所謂神様を淋しい思いをさせるのであり、自分自身も淋しいのである。今日はあの稲員の高山さんが、先生いよいよもう私が御用頂かしてもらう時期になってきた。
いわゆる庭師ですから、もう庭を愈々あつかわなければならん。それで先生の意見を一遍現場で聞かにゃいかん。ここにはどういうお庭を造るか、ここにどういうものを植えるか。それでちょっと来て下さいというから私参りました。それであちらで色々私の意見なんかも聞かしてもろうて帰って、まあお茶でも差し上げて一杯好きですから、お神酒でもあげよりました。そしたら、次々とお参りが沢山あっとったですから、そこでみんな入ってきて、みんなにお茶を上げよった。したら例のそのあの調子ですね。
まあ十四、五年前はまあ非常に熱心に参ってきよったんですけど、最近信心が疎遠になってしもうた。椛目に御造営が始まったというのでその、こりゃ自分の、頂かせて貰う、その御用の場というものをです。もう七十いくつでしょうか、お爺さんですけれど。まあ私が一生一代、一生一代の最後の、いうなら有難い仕事を、どうでも、そういう御用に使うて頂きたい。
今まで、私は信心を御無礼しとったけれど、心に忘れたことはなかった。いっときでも心に忘れとらん。だから、どうぞその御用を私にさしてくれと云うて、もう一年も前から申し込みがあっておった。ところがまだ庭をするという段になっていないもんですから。今日ようやくもうその献木がどんどん集まって来ております。石やらもあっちこっちから集まってきておりますから、それでまあ今日みえた訳なんです。
それで、お神酒も入っておりますし、一杯機嫌で、まぁその、色々、信心話をしておりました。丁度田中さん、婦人部の方達、四、五人一緒にお茶をあげよった。そしたらその、もう「私は金光様の信心を頂いとる、椛目に御縁を頂いて椛目の事はもう参っちゃ来んでん、一日でん忘れたこたなかった。忘れられん。はあもう、それこそ、生神金光大神様、親先生だけは忘れたこたなかった。
だから、おかげだけは頂いて来ている。そして私は、椛目にこれだけ信者さんがおんなさるけれども、私がごたる真似のでけよるもんな一人も居るめち思う」と云うてから、そのそげな話をされるんです。第一私は、親先生がその生風呂には入んなさる。もうこれば私は実行しよる。生風呂ということは、ぬるい風呂という意味なんです。まだ沸かん前にはいる訳なんです。
私が、もうこれだけ位は親先生の真似さしてもらわんならんという訳です。それからその床屋に行っても、もう絶対その眉を剃らせん。もうこれも親先生がもう絶対眉は剃んなさらん、ちいうこつば、私は、もうあの時分から十五年間、これだけは守り続けておるとこう云う。椛目に、あーた、一人でん私がお願い出来るもんが、おりばっするの、ち云うちから。そのいきりまいてから話しんなさいましたら、田中さんが、横から、もう心やすか仲だもんですから。
高山さんて、金光様の御信心なね、あんたがその参ってこなかったらもう、信心じゃなかて、金光様の御信心は。もう毎日お日参りさして頂いてこそ、始めてそのお道の信心じゃ。いいやそげなこたなか。いくら毎日参ったっちゃ、おかげ頂ききらにゃ出来ん。私ゃおかげ頂きよる。而も、十五年間わたしゃ親先生の信心を、この二つだけは守り抜き続け抜かせて頂いておる。家内がそりゃ家のつがその、あんたばっかりがもうほんなこて、風呂ん沸かんさきにはいるけんで、風呂のいつまっでん沸きゃせん。
ち云うちから、まあ口上は云うばってん、これだけはわたしゃし続けてきとる、という訳なんです。こりゃ本当でしょうと思うですね。けどもまあ笑い話のようなことですけれども。その七十にもなるお爺さんがですたいね。おそらくは眉を剃るとき、私を思い出さん筈はないですね。毎晩お風呂に入る時にです、いわば生風呂に入りながら、親先生はこの程度の風呂にしか入らっしゃらんと、こう思う時に、もういうなら、私に通う、又は神様に通うておることも、こりゃ事実だと、私は思うです。
先日もここで、委員長と話しとりましたがです。その秋永先生が、何ち云うですかね、もう一生一代の仕事としてですたい、あんたが金どん取ろうち思うちちから、親しいけど、大体親戚になりますからね。そしたらもう、かんかんになってから、高山さんが怒っとるとですもん。委員長、私が金を貰おうと思うちから、今度ん御用ばさしてもらおうち思いよっとかち云うてから、云よったですもん。
その位、一生懸命に考えておられることだけも、又、事実だと私は思うんです。成程、十五年の間、椛目に疎遠にはなっとったけれどもです。まあその間、ちょいちょい参って参ってきよりましたけれども、大体まぁ月次祭にもお参りできないというような程度になっておったけれどもです。私も、田中さんとその高山さんの、いいえ、これがほんなこつ、と言うとる中で、私は、どう言い安いうもなかっです。
そら、実を云うたら。そりゃ高山さんの方がほんなこつ、いや、田中さんの方がほんなこつ、何故って、どちらも本当なんだから。田中さんなんかは、毎日じゃのうして、いわゆる、その、朝晩お参りさせて頂いておるのだから。そこから生まれた、いいえ、金光様の御信心は絶対日参りからと、こう云うのも事実なのだ。ほんなら、高山さんが、例えば、何年おきにしか、参ってこんというような信心であってもです。
私は、椛目の信心を一日でん忘れたことなかばの、生神金光大神様、親先生、ということだけは、毎日心の中に唱え続けて居る。お風呂に入るたんべんに、眉を剃るたんべんに、これだけは親先生と通い合う、ち云うてから云われる。だから、私がおかげ頂きよろうがの。大体、私が色つやば見らんの。あんたどんが色つやよりか、色のつやが違うち云うて、自慢をされるんです、いつもね。
確かに本当に生き生きとして若々としとる。もうあれで本当にあの高い木なんか登ってから、剪定やらされる時に、ほんに大丈夫だろうかと思う位に、矢張り身も軽々として、私共よりか身が軽い。やっぱおかげ受けておる。そして一生一代の最後の御用としてです、椛目の今度の御用は、どこの何という庭師が来たっちゃ、これだけは私にさしてもらわにゃでけんち云うてから、そのはずんでおられる訳なんです。
ですから、金光様の御信心はね、どれが本当だということは無いです、矢張り。問題はです、私の心の中に、只今私が申しますように。薄暗い部屋の中で、空の茶碗を持って、御飯を頂きよるようなですね、淋しい、又は神様からご覧になっても、恐らく寂しい思いをさせることであろうというような、心の状態であるならば、それは日参りさして頂きよってもダメだということ。
生き生きとした、毎日お参りさしてもらわにゃおられん。朝も参ってくるなら、やっぱり晩も参らにゃおられん。そういう生き生きした心で、お日参りが出来ておって、初めておかげなのです。それは年に何回かでもいい、もうこれだけは、親先生の信心の形だけでも、真似し続けておるということがです。その真似をさして頂きながら、いわゆる親先生とこう繋がる。
それが金光大神に繋がり、天地に繋がらない筈がない。どちらがどうとは云えんのだけれども、問題は、私が今日、その霊眼を頂きましてから、淋しいことだなあと、そしたら神様から頂くこの今の句なんです。「凍鶴のふたたび閉じしまぶたかな」凍りついたような情景の中で、鶴がこうたたずんでおる訳です。そしてその目を開けたと思ったら、又閉じてしまったとこういうのである。
鶴というのは、椛目の亀に対するとこの鶴ですから、これは信者氏子の皆さんのことであろうと私は思うた。お参りをしてきておるけれども、やっぱり本当にこれが、その冬の最中じゃなかろうかというように、冷たい寒い思いをしておる人もあろうけれどもです。信心さして頂いて、一生懸命自分の心が有難いことに向わしていきよる時に、冬も又寒いもんじゃない心が暖かに、豊かに有難く例えばある人もあるけれども。
ほんなら今日私が霊眼に頂かしていただいた人のように、もうとにかく、私がその情景を見てから淋しかった。神様もやっぱり淋しい思いをなさるだろうと思うたら、「凍鶴のふたたび閉じしまぶたかな」という句を頂いた。一ぺんは、椛目におかげを頂いた。はあ信心ちゃ有難いなあ、と云いながらです。矢張り喜びの芽が出てきた。いうならば、肉眼をおいて心眼を開かして貰うた。
ああ、あれも神様のご都合じゃった、これも神様のおかげだと、どのような場合でもそう云えれるような信心が、少しはでけてきよったのだけれど。椛目を疎遠になった途端にです。矢張り難儀なことは難儀として、いわば、開きかけておった心の眼を、又閉じてしもうた、という、淋しい情景を、だから、句に頂いたんだと私は思うんです。だから、とにかく日参りが出来るとか、出来ないじゃなくて、自分の心の中に、肉眼をおいて心眼を開けと仰る、心の眼が開けていきよるか。
心の眼を開くということは、それは痛いことであっても、それは損するなことであっても、馬鹿にされたような場合であっても、と、こう金光様を行じさして頂いたら、神様のご都合に違いはないと。神様のご都合に違いはないというところに、例えば、馬鹿にされても、それが腹も立たない。損をしても、巡りのお取り払いとして、お礼が申し上げられる。これが、心の眼が開けていきよる時です。ところが、心の眼を、肉眼だけで見ると、俺をどうしてこんなに馬鹿にするかと。
せっかく、一日働いたのに今日は赤字じゃったじゃないか、ということになってくるのです。信心する者は、とにかく肉眼をおいて心眼を開けと仰る。心の眼を開かして貰うところに、一切がおかげと。あれもおかげである、これもおかげであるという、いわば世界が、そこから開けてくる。どうでしょう、私共の日常生活の中にです。どのような場合でもです、あれもおかげ、これもおかげというような心の状態が、本当に頂けてくるなら、これが幸せでなくて何であろうかとこう思う。
日々の中に、お天気の日もありゃ、矢張り雨嵐といったような日もあるけれども。雨嵐は雨嵐として、神様のご都合として頂けれる。そういう、私は思い方がです、そういう生き方なんです。そういう生かされ方というものがです、出来ていくことが、私は肉眼をおいて心眼を開かなければ出来ることじゃないと思う。「信心する者は先ず肉眼をおいて心眼を開けよ」肉眼で見た目。それは、ここにある一切の姿なんだけれども、その姿というものは、それは本当の実相ではないと。
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